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the Key to "INTUITION"

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隣人愛というのでしょうか

他人を助けてあげたいという気持ちが実は罠ということがよくある。
困っている人には手を差しのべるべきだという発想は諸刃の剣だ。
ホームレスへの炊き出しは、餓死者を救う反面、依存状態に甘んじさせるデメリットもある。
持って生まれた可能性を発揮させるにはそのための条件が揃っていなければ無理だという言い訳は、生活のクオリティが高かろうが低かろうが、出てくる。
条件を揃えることが目的になると可能性を見失いやすい。
条件が揃うことで可能性が発揮されるのだと勘違いすれば延々と条件を追い求めることになるだろう。
可能性が主で、条件は従なのだ。
条件がはじめから揃っていなくても、持って生まれた可能性を発揮させていくことで、必要なときに必要な条件が揃うのだ。

裕福だったり貧しかったりと条件にどれだけ差があったとしても、それぞれが魂の可能性を発揮させる使命を生まれ持つ対等な立場であることを認め合う。
そのような考えが他人への態度の基礎としてあったから、震災の日、日常が機能しない緊急事態に陥ったのに、混乱や暴動もなく過ごせたのだと思う。

緊急事態のときほど、生き物としての自己保存欲求が危機にさらされるので、倫理観が試される。
生活が安定して余裕のあるときならいくらでも親切で礼儀正しく振る舞うことができるからだ。

生まれつきの条件はそれぞれ違うとしても、天から与えられた生命の可能性に干渉するべきではないという倫理観は、日本の風土に浸透しているのではないかと思う。
それは裕福な人が貧しい人を憐れんで施しを与える慈善活動とは全く違う種類の、相手に対する思いやりだ。

それは三次元的価値体系が無意味になっていく時代の中で、とても大切になっていっているように思う。
なぜならそれが自由と隷属を見極める大きなポイントになるだろうから。
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テーマ:アセンション(次元上昇) - ジャンル:

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ありのままを表現する

かつて芸術は、超人的な表現を志向することでした。
それは、誰が見ても賞賛できることです。
今や、偉大な先人を見習うことは、エゴを育成する陰謀が仕掛けられ、科学技術が肩代わりすることで、高度な技巧は、誰でも簡単に操作できるありふれたものになりました。
それでも人は芸術がなければ生きていけません。
芸術がすべて失われた今、芸術的に生きるということは、ありのままを表現することです。
ありのままでは、賞賛を得ることは難しい。
ありのままを表現することは、批判されたり、失笑されるかもしれないという恐怖を乗り越えることです。
それは、エゴとの闘いです。
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2012 ロンドン オリンピック

オリンピックのテレビ放送が、これでもかというほどの扇情的な国粋主義に陥っているのを目の当たりにして、太平洋戦争末期の日本の社会状況もこんな感じだったんだろうかという考えが頭をよぎった。
私が幼い頃は、そこまでニッポンニッポン五月蝿くなかった。日本だけでなく、外国の選手の活躍にもそれなりに時間を割いて注目していたように思う。現在がニッポン9:外国1なら、当時は日本6:外国4 くらいだったんじゃないか。
ま、肯定も否定もしませんが。そんなどうでもいいことに気がつきました。

エントロピー的な世界、カルマの法則、つまり、古いパラダイムにしがみついている人々は、新しいパラダイムへの橋渡しのための、捨石なのだと思う今日この頃。
それは、痛々しい犠牲ではなくて、むしろ、彼等にとって、最大の願望なのではないか。
ロードオブザリングのゴラムは、念願の指輪を手にしたのだ。マグマに落ちて行くときのゴラムはとても幸福そうだった。
古いパラダイムとともに生き埋めになる人々も、ゴラムと同じように、幸福でしょう。

幽閉者ブランキ伝

p.148
こういう精神状態はたしかに、進化というのは必然的な段階をへて緩慢に進むものだということへの無知を表わしている。しかし、歴史家や哲学者がずっと先の方にかろうじて見ているものを、すぐそこに、なんの苦労もなく見たいとあせる大衆に、いったい何が要求できよう。焦慮と落ちつきのなさも進化の要因ではないか。予定されたことが全部プログラムどおり成就するような、そういう熟慮した歩み、方法的な行動を人類に要求することはできない。
人生には決まった段階も安全な中継地点もない。それは動揺した不規則なもので、その宿命も限りなく複雑なものである。こうして1848年の共和主義者と社会主義者は、かちとった成果を維持し権力の主人として留まりたいという一心から、かえって革命劇の大づめを促進させてしまった。社会に注入した熱気によって、何世紀もの作業を一日で達成したいと思う痙攣的な精神状態によって、かえって終幕を早め、形式上の変化を不可避ならしめてしまった。
ただ彼らは、思慮のたりない生け贄として気前よく自分自身を犠牲にし、豪に死骸を横たえ、後に来る者の捨石になったのである。未来を準備したのである。



幽閉者ブランキ伝
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食べることは生命をいただくことなのか

動物と植物の違い。
動物は粉砕したら死ぬ。
植物は粉砕しても火を通さない限り生きている。

お皿の上のステーキやローストビーフには生命がない。
サラダボウルのレタスやトマトやタマネギやニンジンには生命がある。

したがって
肉食は生命をいただくことにならない。
生の菜食は生命をいただくことになる。

だから、動物も植物も食べる人は「食べることは生命をいただくこと」とは必ずしも言えない。

菜食主義者でさらにローフード専門の人は「食べることは生命をいただくこと」だと言えるだろう。

ちなみに獣やヴァンパイアは、動物を生きたまま食べるのだから、文字通り、生命をいただいていることになる。

生命を食べることは同時に生命を殺すことである。

普通の人間は、食肉処理の過程を経た肉塊を調理して食べる。

殺すことと食べることの間に、食肉処理工場や流通や小売の過程があるため、殺すことと食べることが直結していない。

生きている動物をそのまま食べることができる人間なら、「食べることは生命をいただくこと」だと言える。

しかしそれは、人間のふりをして人間社会の中で生活している獣かヴァンパイアなのかもしれない。


金魚王国の崩壊





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光と闇の共存

拙宅の隣の市には、テレビなどで取り上げられたことのある全国的に有名なゴミ屋敷があります。

現在でも住人が住みつづけ、市は対応に困っているそうです。

ゴミ屋敷がなぜ存在するかについて、住人の精神疾患などに原因を求める意見がありますが、それはそれとして、別の視点から考えてみましょう。

この市内には、歴史の古い、大きな神社があります。

神社は神聖な光を放っている場所ですから、光が強ければ強いぶん、闇の濃くなるエリアがどうしてもできてしまいます。

神社から南方に10キロほどのところに位置するゴミ屋敷は、闇を担っていると考えられます。

ゴミ屋敷は、けがらわしい、不快なものとして、周囲のネガティブなイメージが投影される対象として存在しているわけです。

神社が放つ光によってできる闇を引き受ける器としての「ゴミ屋敷」。

神聖なものを崇める心理と穢れたものを排除する心理を重ねると、トーラスになります。


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