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the Key to "INTUITION"

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隣人愛というのでしょうか

他人を助けてあげたいという気持ちが実は罠ということがよくある。
困っている人には手を差しのべるべきだという発想は諸刃の剣だ。
ホームレスへの炊き出しは、餓死者を救う反面、依存状態に甘んじさせるデメリットもある。
持って生まれた可能性を発揮させるにはそのための条件が揃っていなければ無理だという言い訳は、生活のクオリティが高かろうが低かろうが、出てくる。
条件を揃えることが目的になると可能性を見失いやすい。
条件が揃うことで可能性が発揮されるのだと勘違いすれば延々と条件を追い求めることになるだろう。
可能性が主で、条件は従なのだ。
条件がはじめから揃っていなくても、持って生まれた可能性を発揮させていくことで、必要なときに必要な条件が揃うのだ。

裕福だったり貧しかったりと条件にどれだけ差があったとしても、それぞれが魂の可能性を発揮させる使命を生まれ持つ対等な立場であることを認め合う。
そのような考えが他人への態度の基礎としてあったから、震災の日、日常が機能しない緊急事態に陥ったのに、混乱や暴動もなく過ごせたのだと思う。

緊急事態のときほど、生き物としての自己保存欲求が危機にさらされるので、倫理観が試される。
生活が安定して余裕のあるときならいくらでも親切で礼儀正しく振る舞うことができるからだ。

生まれつきの条件はそれぞれ違うとしても、天から与えられた生命の可能性に干渉するべきではないという倫理観は、日本の風土に浸透しているのではないかと思う。
それは裕福な人が貧しい人を憐れんで施しを与える慈善活動とは全く違う種類の、相手に対する思いやりだ。

それは三次元的価値体系が無意味になっていく時代の中で、とても大切になっていっているように思う。
なぜならそれが自由と隷属を見極める大きなポイントになるだろうから。
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